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東京都営バスに車掌さんがいた風景②都営バスはワンマン運行の時代へ

さて、昭和30年代。

都営バスの車掌として乗務していた編集部Iの母。そして、その母と同じ時代に運転手をしていたWさんご夫妻に当時の懐かしい様子をインタビュー。

今回はバスの運転手をしていたやんちゃな?Wさんのエピソードをご紹介しましょう!

Wさんが都営バスの運転手になったのは、前職の会社社長が逮捕されたから!?

Wさんが都営バスの運転手さんになったきっかけは、働いていた映画館を経営する会社の社長さんが脱税で逮捕されてしまったため。たまたま大型免許をもっており、東京都交通局に知り合いがいたので首尾よく採用されたそうです。

当時の映画料金は123円ぐらい?(昭和29年頃で100円、32年ぐらいで150円だったらしい)その約半分は税金として国に納めていました。

映画館ではお客さんが入場する際に「もぎり」をします。(いまでもそうですよね?)当時はその半券の枚数で売上を計上。税金を支払っていました。

Wさんが勤めていた映画館では、わざともぎらずに、売上を少なく計上していたそうです。

「半券(もぎりの)いらない」というお客さんが一定数いたので、「ちょうだいって言われない限り、もぎらなかった。そうやって、実際より少なく売上をみせかけてた」

これがバレて査察が入り、社長以下、幹部の人たちがつかまってしまったというわけです。

交通局からWさんの身上調査があったとき、社長の奥さんたちがなんとか都営バスの運転手になれるよう、「とてもまじめで良く働く好青年です!」と猛プッシュしてくれたとか。

「おかげで路頭に迷うことなく、仕事にありつけたんだ」とWさんは笑っていました。

都営バスの給料はめちゃ安かった・・・

実はWさん、いろんな仕事を転々としてきたそう。

「寿司職人もしていたことがある」

このため、交通局に前職での働きぶりを調べられないよう映画館で働いていたことだけを書くようにアドバイスされていました。

「映画館で働いていた頃の月給は約5~7万。交通局の給料はなんと月6千円。この他作業給などがついて4千~5千円プラスになるぐらい。かなり生活は苦しくなったよー」

昭和30年代頃の一般的な給料を調べてみると、2万~3万ぐらいだったようです。それに比べると確かにかなり安かったといえるでしょう。

当時、バスを運転するには二種免許は必要なかったので1週間ぐらい練習して、すぐにデビュー。

「1か月ぐらいはよくぶつけたりしてた(笑)」

「路線バスの運転手なんてやるもんじゃない」

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Wさんがバスの運転手として東京都交通局・渋谷自動車営業所に勤め始めたのは22歳の時。10年間在籍しました。

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その後、同じ班で車掌をしていたKさんと結婚し、練馬へ引っ越したのを機に運転手から車掌になり、練馬営業所へ転勤。定年まで勤務することになります。

「転勤する条件が運転手を辞めることだった」と、Wさん。もともと車の運転は好きだったのでさびしい気持ちはあったそうです。

交通局就職当時「ともかく給料が安かったので乗務のない休みの日でも渋谷自動車営業所へ行き、食堂でごはんを食べてた(笑)」

一般的な給料の半分では、確かにギリギリの生活だったことでしょう。

「路線バスの運転手なんてなるもんじゃなかったよ」

当時の交通事情は最悪で、乗用車がバスを馬鹿にしてわざと幅寄せしたりなど嫌な思いもたくさんしたそう。

やんちゃな?Wさんのこと。運行中、バスを降りて意地悪した乗用車の運転手と「ケンカもよくした(笑)」

大変だったのがルートを覚えること。特に経堂から運行するバスは六本木で別れるので良く道を間違えたりしたとか。

「本当は東京駅に行くはずだったのに、虎の門へいってしまったりしてお客さんに謝ったこともあった」

お客さんの方でも「電車で戻るからいいや、なんて感じで許してくれて、鷹揚でいい時代だったよね」

バスの運転手になりたての頃、このルートがなかなか覚えられなくて車掌さん頼みだった時期も。

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「次どこ曲がるの?なんて、道を良く教えてもらったよ」

交通渋滞が激しくて困ったのがトイレ

「特に東京駅までを結ぶルートが大変だった」とWさん。渋滞していなくても1時間はかかるので、途中、トイレに行きたくなって困ったそうです。

このため、バス停ではないところでバスを停めて駅やガソリンスタンドなどでトイレを借りたことも。

路線バスの運行中、突然バスを停め「窓から運転手が降りて、いなくなってしまったこともあった」と語るのがKさん(Wさんの奥様)。

「バスが乗客で満杯だからドアから降りられないのよ。なので、窓から降りた(笑)」

どこに行くのか車掌にも告げないので困ったそう。

お客さんから文句はでなかったのか?

「すみません。トイレに行っていました」というと許してもらえた。

「今とは違い、みんな心が広く、のんびりした時代だったのよ」

朝晩の通勤ラッシュ時はトイレが我慢できない車掌さんや運転手さんが入れ替わり立ち代わり、しょっ中トイレを借りに来るため、お出入り禁止になったガソリンスタンドもあったそう。いまではなんとも懐かしいエピソードだそうです。

練馬営業所に移り、念願のマイホームを手に入れたWさん夫妻

渋谷自動車営業所を辞め、練馬に移ったとき、「ともかく田舎で楽だった」と語るWさん。

練馬に土地を買い、念願のマイホームを立てたばかりで渋谷まで通勤するのが大変だったための転勤。

「営業所までの通勤はバイクで通ってた。750CCの大型バイク。2回ぐらい死にそうな事故を起こして、バイク通勤を禁止された」

実はWさん。ついこの間まで大きな車を運転していたそう。ところが孫の車を運転していて横転事故を起こしてしまった。これがきっかけで免許を返納した。

「最近の車はなんだかベンリになりすぎて何をどうしていいかわからなくなったよ(笑)」

昭和40年代から都営バスはワンマン運行の時代へ

都営バスから車掌さんが消えたのはいつごろか?

「昭和44年~45年ごろからワンマン運行になったんじゃないかな?」とWさん。急にいなくなったわけではなく、少しずつワンマン運行へ転換していきました。

記録によると、1966年頃には車掌の採用を中止し、1970年には合理化が進んだとあります。

「男性の車掌から運転手になった人もいたし、区役所へ勤め替えした人、事務方にまわった人もいた」そうです。

赤字続きだった都営バスですが、ワンマン運行になってからは給料が上がり、中には年収1,000万円クラスもいたとか。

縁故採用がなくなり、給料も良くなったことで他のバス会社からの転職組も増えた。このため、いろんな問題やトラブルもぐんと増えたといいます。

バス代の「着服」が横行した時代もあった

車掌が乗務していた時ももちろんあったそうですが、ワンマン運行になってからは料金箱の合鍵を作って・・・という方法で着服する運転手さんも。

「当時の鍵なんて簡単に合鍵つくれちゃったからね」

「毎日少しずつ売上をごまかしてロッカーにストックしていたのが見つかって首になったやつもいる」

車掌はもちろん、運転手も業務中はお金を身に着けてはいけないルール。うっかり忘れてお金をもったまま乗務して、しかたなく料金箱に入れたこともあったそう。

「食事などは伝票につけてもらって食べた」

給料から天引きしてもらい、現金は持ち歩かなかった。通勤もJRやバスは無料なのでお金は不要。ともかく疑われないようにが鉄則だったそうです。

次回は再び車掌さんの日常にフォーカスし、当時の若い女性たちがどんな青春を謳歌していたかも合わせてをご紹介していきましょう!

(--続く--)

その他の「東京都営バスに車掌さんがいた風景」を読む≫第1話第3話

【写真・資料提供:Wさん】

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